エンゼルス事件簿

メジャーには日本のプロ野球とは比べ物にならないほど個性的な選手が集まっている。そういう選手はチームに信じられないほどのケミストリーとパワーを与えるが、時として大きなトラブルを巻き起こすことも。「エンゼルス事件簿」では、エンゼルスの過去の様々なトラブル、忘れられない事件や逸話をお伝えしたい。

  1. 運命を変えた誤審、振り逃げからサヨナラ負け (2005年ア・リーグ優勝決定シリーズ第2戦)
  2. メジャーリーガーとしての第1歩を踏み出した夜に交通事故死 (ニック・エイデンハート投手)
  3. サヨナラ満塁弾、ホームで待っていたのは複雑骨折 (2010年、ケンドリー・モラレス1塁手)

(1)運命を変えた誤審、振り逃げからサヨナラ負け

(2005年ア・リーグ優勝決定シリーズ第2戦 対シカゴ・ホワイトソックス、2005年10月12日)

2005年、ア・リーグ優勝決定シリーズで、エンゼルスは3年ぶりのワールドシリーズ進出をかけてシカゴ・ホワイトソックスと対戦した。当時ホワイトソックスには現千葉マーリンズ監督の井口資仁がいた。

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この年、エンゼルスは地区シリーズで松井秀喜やジーターを擁するヤンキースを最終第5戦で下し、黄金時代の到来かと思わせる充実したシーズンを迎えていた。

勢いに乗るエンゼルスは第1戦を敵地シカゴで3-2で勝利した。チームにはこの年45セーブでセーブ王に輝いた新守護神のフランシスコ・ロドリゲスが全盛期を迎えようとしており、終盤の投手戦には滅法強かった。

迎えた第2戦、投手戦となり1-1のまま9回裏へ。9回裏ホワイトソックスの攻撃も2死無走者で、このまま延長戦突入が濃厚と思われた。ホワイトソックスのバッターは捕手のAJ・ピアジンスキー。3-2のフルカウントからエンゼルスの右腕ケルビン・エスコバルが投じた6球目、ピアジンスキーは低めのボールを空振りし、審判も右手を上げた。誰もがスリーアウトと思った。エンゼルスのキャッチャー、ジョシュ・ポールはチェンジと思い、捕球したボールをマウンド方向に軽く転がし、ベンチへ戻ろうとしていた。

その時、一度は自軍ベンチに帰りかけたピアジンスキーだが、クルッと方角を変えるとゆっくりと1塁に向かって走り始めた。ピアジンスキーが1塁に到達すると審判はセーフのコール。一瞬、何が起こったのか、誰も理解できない。

実はこの時主審は最後の空振りしたボールはワンバウンド捕球と判定したのだった。その場合はアウトにするには打者走者にタッチするか、一塁へ送球する必要があったのだが、それを怠ったので振り逃げ成立という判定だったのだ。

当然のようにエンゼルスは猛抗議。そもそも、審判が手を上げてアウトの合図をしているでないかと。審判の言い分は「手を上げてコールしたのはストライクと言うことであり、アウトのコールは行っていない」という苦しいもの。井口資仁も試合後「ダイレクトキャッチのように見えた」と語っている。

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テレビのビデオ画面では井口の言うようにノーバウンドで取っているように見えるが、当時はビデオ判定の制度はなく、判定が覆ることはなかった。かくして2死1塁で試合が再開されると、すかさず代走ランナーが2塁へ盗塁に成功。その直後にジョー・クリーディ内野手がツーベースを放ち、ホワイトソックスはサヨナラ勝ちで1勝1敗のタイに戻した。

ピアジンスキーは「球審がアウトを宣告しなかったから、ワンバウンドなのだろうと思った。3球目がワンバウンドしたのなら走るべきだ」と振り逃げを試みた理由を明かし、「昨年、同じようなことを逆の立場で経験した。それが頭をよぎったのさ」と話している。

試合後、審判のあいまいな判定動作に対してクレームが殺到したが、同時にワンバウンドかどうかのきわどいボールの場合は、念のためバッターにタッチするという捕手の基本を怠ったジョシュ・ポールも激しい批判にさらされた。

なんとも後味の悪い敗戦を喫したエンゼルスは、ホームに戻ってからも流れを取り戻せず4連敗を喫して、シリーズ敗退となった。一方、ホワイトソックスはそこから8連勝して一気に頂点まで上り詰め、シカゴの街に88年ぶりのワールドチャンピオンの座をもたらした。まさに流れを変えた判定だった。

エンゼルスでレギュラー捕手の座を掴みかけていたジョシュ・ポールだったが、この痛恨のプレーが原因となったのか、その年のシーズン後にタンパベイ・レイズにトレードされた。レイズ移籍後も控え捕手に甘んじ、結局2年後に引退する。

一方の当事者ピアジンスキーは、エンゼルスファンからスポーツマンらしくないセコいプレーだと恨みを買い、その後引退するまで何年もエンゼルスタジアムで打席に立つ度に激しいブーイングを浴びせられることとなった。

なお、ジョシュ・ポールは後年も「あの時の捕球は間違いなくダイレクト捕球で、自分は間違っていない」という主張を変えていない。しかし、一瞬の誤審に運命を翻弄された悲運のキャッチャーである。


エンゼルスがジョシュ・ポールをベンチ・コーチとして採用
2017年11月、エンゼルスはジョシュ・ポールを2018年からベンチ・コーチとして招聘することを発表した。ポールは引退後、ヤンキースのマイナーでキャッチングのコーチや監督を務め、実績を積んでいた。ポールはコーチする際に、自分の犯した間違いを何度も例に出して、若い選手に捕手の基本を叩き込んできたという。

久しぶりにエンゼルスのユニフォームを身にまとってアリゾナのキャンプに現れたジョシュ・ポールは、件の判定についてを聞かれると「ノーバウンド捕球だったことは間違いない。しかし、もし同じシチュエーションに遭遇したら? 100%タッチするさ」

「失敗は成功の母」と言う。ポールが自分の犯した過ちをエンゼルスでおおいに役立ててくれることを期待したい。


(2)メジャーリーガーとしての第1歩を踏み出した夜に事故死

ようやく掴んだ開幕メジャーの座、遥かメリーランドから呼んだ父の前、初先発で6回無失点の好投。喜びに沸いたその晩、飲酒運転の車に激突され短い生涯を閉じた投手がいた。

ニック・エイデンハート、2009年4月9日没。享年22歳。

メリーランド州出身。9歳の頃にはメジャーを目指し、地元ではすでに有名な選手だった。高校に上がる頃には全米でも注目を浴びる存在で、早くからドラフト候補と目されていた。前評判の高さを表すように代理人はあのスコット・ボラスがつくほどだった。

ところが卒業を控えた2004年のドラフト前に肘を故障してトミージョン手術が必要となったため多くの球団は指名を回避した。しかしエンゼルスが14順目で指名し入団することになった。

トミージョンから復帰したエイデンハートはマイナーで腕を磨き、2008年に初メジャー昇格。しかし制球に苦しみ思うような成績を上げられず再びマイナーに降格した。

2009年、スプリングトレーニングで好投を続け、念願の開幕メジャーを勝ち取った。そして4月8日の開幕3戦目のアスレチックス戦に先発した。この試合、故郷のメリーランドから父を呼び寄せていた。

エイデンハートはランナーを出すも粘りのピッチングを続け、6回無失点の好投でマウンドを降りた。残念ながら抑えのブライアン・フェンテスが打たれてエイデンハートに勝ち星はつかなかったが、試合後、初めてメジャーで自分のピッチングが出来たことを父や代理人のボラスと喜びを分かちあった。

その晩、友人ら3人と合流し、友人の運転する三菱エクリプスのオープンカーに同乗して球場近くを通りかかった時、トヨタ・シエナのバンが赤信号を無視して100キロ近いスピードで突っ込んできて、エクリプスに激突した。この事故で運転していた友人と助手席の友人が即死。エイデンハートは意識不明の渋滞で病院に担ぎ込まれたが、治療の甲斐なく9日早朝に息を引き取った。享年22歳であった。

トヨタを運転していた22歳のヒスパニック系の男は大事故にもかかわらず自分は無傷で、現場から逃走。30分後に警察に捕まったが、かなりのアルコールが検出された。調べると過去に二度、飲酒運転と薬物運転で有罪判決を受けており、事故を起こした時は免停状態だった。のちに懲役51年の禁固刑を受けている。

翌日の試合は事故を受けて中止になった。その後エンゼルスナインはユニフォームの胸にエイデンハートの背番号34があしらわれた喪章を着用した。彼と一緒に戦い抜こうと、ユニフォームやスパイク、それに最後の登板となった試合のスタメン表などをロッカーに置いたままにした。本拠地の外には、彼を偲ぶファンがメッセージを記した球団の帽子や手紙などを置いた追悼の輪ができた。その輪にはキャンドルが灯され、シーズンが終わるまでそこを訪れる人が絶えない“名所”になった。

その年、エンゼルスは地区優勝を遂げた。選手たちは試合に勝って優勝が決まったあと、全員で外野のエイデンハートのモノクロ写真にタッチし、シャンパンファイトの時には選手たちはエイデンハートのユニフォームにもシャンパンをかけ喜びを分かち合っていた。

プレーオフでは、リーグチャンピオンシップシリーズでニューヨーク・ヤンキースに敗れ、シーズンを終えたがエンゼルスは、1人あたり約13万ドルのプレーオフ分配金を、エイデンハートにも贈った。

あの日、抑えのフェンテスは4本のヒットを打たれ9回に3点を失って逆転負けを喫したのだが、もしちゃんと抑えていたら事故現場にあのタイミングで行く事はなかったのではないかとか、いろいろ想像したのを覚えている。


(3)サヨナラ満塁弾、ホームで待っていたのは複雑骨折 (2010年、ケンドリー・モラレス1塁手)

劇的なサヨナラ満塁ホームランを打ったのに、ホームインした時に転倒。左足首を複雑骨折したケンドリー・モラレス1塁手 (2010年5月29日 対マリナーズ戦)

ケンドリー・モラレスは、キューバ出身、若くしてナショナルチームで活躍したが、自由に野球ができる環境を求めて、8度に渡って亡命を試みるもことごとく失敗。2004年、モラレス19歳の9回目の挑戦にしてようやく成功。モラレスはドミニカでの市民権取得を経てついにアメリカでプレーする権利を得て、晴れてエンゼルスと6年契約を結んだ。

しかし、2008年まではメジャーの壁に苦しみ、マイナーとメジャーを行ったり来たり。しかし2009年ついにその才能が開花し、打率.306、34本塁打、OPS .924の立派な成績を上げレギュラーに定着した。

主力として期待された翌2010年、開幕から絶好調で、この年に加入した松井秀喜と4番、5番の主軸を任された。そして迎えた5月29日の対マリナーズ戦、この試合は当時マリナーズにいたイチローとエンゼルスに移籍してきた松井秀喜が初めて顔を合わせるということで日本人的には注目のゲームであった。私も内野スタンドで観戦していた。

試合は投手戦の末、1対1で延長に突入。10回裏、エンゼルスは1死満塁と絶好のサヨナラのチャンス。ここで回ってきた5番モラレスが初球を強振すると、打球はセンターのフェンスを超える劇的なサヨナラ満塁本塁打となった。次々とホームインするエンゼルスの選手に続き、モラレスがホームベースで待つ歓喜の輪の中にジャンプ・インした。

しかし、悲劇はそこで起きた。歓喜の輪の中で沈み込んだように見えたモラレスがいつまでたっても起き上がってこない。

一体どうしたんだ?

慌てて監督やスタッフが駆け寄るとそこには苦痛に顔を歪めるモラレスがいた。なんとホームベースに着地した瞬間に左足首を複雑骨折してしまったのである。翌日に緊急手術を受けたが症状は重く、この年は全休となった。続く2011年も復帰は叶わず、結局再起まで2年の年月を要した。このケガの後、脚力が衰えたモラレスはその後はほとんど守備につくことはなく、ほぼDH専業になってしまった。ただ、いまだに現役を続けており、今シーズンはミルウォーキー・ブルワーズでプレーする。

このケガの理由だが、単に着地に失敗したように見えるが、他の選手がバランスを崩してモラレスの脚に倒れ込んだためという説もある。もちろんそれがどの選手かという名前などは明らかになっていない。

また、エンゼルスではこの事故を教訓にサヨナラホームランの選手がホームインする時は、祝福する選手はホームから少々離れて見守るという暗黙のルールが出来た。ただ最近は、事件が風化してあまり守られていないようである。

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