エンゼルスを彩るレジェンド達を紹介
- ヴラディミール・ゲレーロ(外野手) (エンゼルス在籍 2004~2009年)
- フランシスコ・ロドリゲス(救援投手)(エンゼルス在籍 2002~2008年)
- 長谷川滋利(投手)(エンゼルス在籍 1997~2001年)
ヴラディミール・ゲレーロ(外野手) (エンゼルス在籍 2004~2009年)
イチローよりも確実性があり、松井よりも遠くへ飛ばし、肩と足は最強クラス!まさに天才の野生児!
今年、ホール・オブ・フェーム(殿堂)入りを果たしたドミニカ出身の強肩強打の右打ちの外野手。現在エンゼルスのスプリング・トレーニングの臨時コーチとしてキャンプに参加している。ドミニカから2人目のメジャー選手になったゲレーロは日本から来て、二刀流の挑戦を続けている大谷にも温かい視線を送っている。
エンゼルスの黄金期を支えた戦後最高のバッター
1996年にモントリオール・エクスポズでメジャーデビュー。エンゼルスには2004年から2009年の6シーズンを過ごした。長い手足にドレッドヘア、バットは素手で持つ、まさに野生の天才の風貌だった。素手でバットを握るため、手についた松ヤニで常にヘルメットが汚れているのがトレードマーク。
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エンゼルス移籍1年目の2004年は打率.337、39本塁打、126打点を記録し、エンゼルスの18年ぶりの地区優勝の原動力となり、シーズン終了後にMVPに選出された。その後も頼れる主砲としてエンゼルスの黄金期を支えた。
ゲレーロは2009年オフにFAとなり、テキサス・レンジャーズへ移籍したためエンゼルスは代わりの主軸として松井秀喜を獲得した。その2010年、ゲレーロはレンジャースで29本塁打115打点、打率.300を記録。一方松井秀喜は21本塁打84打点、打率.274とかなり見劣りする成績に終わったため、エンゼルスファンはゲレーロの放出を嘆いたものだ。
ゲレーロは現在のアルトゥロ・モレノがオーナーになってから行った数多くのトレード/FAで例外的に成功したケースだった。ゲレーロ以外の大型補強はほとんど失敗だったと言っても良いほどだ。
現代野球で最高のバッター
16年間のメジャー生活で、生涯打率がなんと.318、通算本塁打も449本を誇った。生涯打率はメジャーでは歴代55位にランクされている(最低3000打席以上)。しかしこのランキングの上位者のほとんどは、変化球の種類が現代とは比較にならないほど少ない戦前の打者優位の時代にプレーした人たちである。
戦後生まれでゲレーロより上位にいるのはわずか4人にすぎず、現役では1人もいない。ゲレーロより上の4人も長打よりもシングルヒット狙いに特化した選手という感は否めず、ゲレーロほど確実性と長打力を兼ね備えたバッターはいなかった。ゲレーロは現代野球で最高の打者といえるのではないだろうか。
メジャー通算打率ランキング(戦後生まれのみピックアップ)
18位 Tony Gwynn .3382 (本塁打135)
33位 Wade Boggs .3279 (本塁打185)
34位 Rod Carew .3278 (本塁打92)
53位 Kirby Puckett .3181 (本塁打207)
55位 Vladimir Guerrero .3176 (本塁打449)
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ちなみに現役でゲレーロに近いのは
62位 ミゲル・カブレラ(タイガース) .3168(本塁打462)
64位 ホセ・アルテューベ(アストロズ) .3164(本塁打84)
三冠王も獲得したカブレラはこのまま引退まで打率を落とさなければゲレーロに匹敵するレベルの選手と言えるだろう。逆に言えばゲレーロは三冠王カブレラを超える存在と言えよう。ちなみに
91位 イチロー .3116 (本塁打117)
143位 マイク・トラウト(エンゼルス) .3060(本塁打201)
146位 アルバート・プホルス(エンゼルス) .3050 (本塁打614)
トラウトは現役最強の打者と言われるが、生涯打率でゲレーロを抜くにはこれから10年くらい毎年.320~.330は打たないといけない。ゲレーロの生涯打率.318がいかに凄いかがわかる。
悪球打ち
ゲレロを象徴するのがどんなボールでもヒットにしてしまう悪球打ちである。生来の反射神経の良さとミートの上手さがあったため、ワンバウンドのボールをヒットにしたり、顔くらいの高さのボールをホームランにすることもあった。また手が長く、逆方向へ流し打つ器用さもあったため、外角へ遠く外れたボールでもライトスタンドへ持っていってしまう。全くもってピッチャー泣かせの打者であった。
強肩と俊足
ゲレーロは外野手として超一級の肩を持っており、外野の深いところからノーバウンドの矢のような送球を送り、走者をアウトにしてしまうシーンを何度も披露した。ちなみに下の動画、投げているのはエクスポズ時代にゲレーロの同僚だった吉井理人で、引退後は昨年まで日ハムで大谷を教えていた。
また、ゲレーロは足も速く、エクスポズ時代の2000年、2001年にはそれぞれ37、40盗塁を記録している。
しかし、肩の強さ、足の速さは超一流だったものの、守備自体はお世辞にも上手いとは言えなかった。生まれつきの運動神経の良さに頼ってプレーしていたため、若い頃に基本をしっかり教えてくれるコーチに出会わなかったことが原因と思われる。
大谷に捧げる言葉
2018年、エンゼルスのキャンプで臨時コーチを務めるゲレーロは大谷の投球練習を見て「素晴らしいボールを投げていた。エンゼルスの一員になってくれてうれしい。彼はメジャーで成功に必要な要素を全て持っている」と太鼓判を押した。
ゲレーロ「始まりより終わりが大事。始まりは問題ではなく、最後にどんな形で終われるかが重要。いいスタートが切れたとしても、そこから成長して、さらにいい終わり方ができるように目指してほしい。私が(ナ・リーグの)エクスポズからア・リーグのエンゼルスに移籍した時も、最初の1か月はアジャストするのが難しかった。ましてや大谷は違う国から来たのだから、アジャストはさらに難しいだろう。だが、彼の才能は輝くはず。いいスタートを切れるように祈りたい」
フランシスコ・ロドリゲス(救援投手)(エンゼルス在籍 2002~2008年)
弱冠20歳でワールドシリーズデビュー!キレキレのスライダーで三振の山を築いたK-Rod
メジャー通算成績(実働16年)
登板 | イニング | 勝利 | 敗戦 | セーブ | 奪三振 | 防御率 | WHIP |
948 | 976.2 | 52 | 53 | 437 | 1142 | 2.86 | 1.16 |
1982年ベネズエラ生まれ。生後2か月で両親に捨てられ、祖父母らの手で育てられる。その後は両親の元を何度訪ねても無視されるばかりだったという。14-15歳のころには90マイルの速球を投げ、16歳になってメジャー球団との契約が解禁されると10以上の球団が獲得に乗り出したが、1999年にエンゼルスと契約した。
最初の3年間は先発投手として投げたが、三振は多いもののなかなか結果を残せずにいた。2002年からは救援投手に転向。徐々に頭角を現し、2002年9月にセプテンバー・コールアップ(脚注参照)で20歳でメジャー初昇格した。
昇格当初は特段の期待もされなかったのだが、投げさせてみると90マイル台後半のストレートと切れ味鋭いスライダーで三振の山を築いた。ポストシーズンに近づくに連れ、クローザーのトロイ・パーシバルにつなぐセットアッパーの役を任されるようになった。
そしてエンゼルスは西地区2位ながらワイルドカードでポストシーズン進出を決めた。通常はセプテンバー・コールアップで昇格した選手はポストシーズンには出られないのだが、故障のため出られなくなった選手の代役としてロドリゲスは特別に出場が認められた。
衝撃の2002年ポストシーズン
ア・リーグ地区シリーズ(ALDS)では前年のリーグ王者ニューヨーク・ヤンキースと対戦。第2戦で、ロドリゲスはポストシーズン初登板。2点を失い逆転を許したものの、その後チームが再逆転し、ロドリゲスは勝利投手となった。続く第3戦では2回無失点4奪三振(下記動画参照)、第4戦では1.2回無失点3奪三振と好投。ロドリゲスの3連投とともにチームも3連勝し、3勝1敗でリーグ優勝決定シリーズ進出を果たした。
リーグ優勝決定シリーズではツインズと対戦。ロドリゲスは第2戦から第5戦まで4連投し、防御率0.00と相手打線を完璧に抑える。このシリーズでもロドリゲス登板試合でチームは全勝し、4勝1敗で球団創設42年目にして初のリーグ優勝・ワールドシリーズ進出を決めた。
ワールドシリーズではバリー・ボンズ率いるジャイアンツと対戦。第2戦で3回を投げて無安打無得点に抑え、シリーズ史上最年少の20歳286日で勝利投手に。しかし第4戦では安打と捕逸で走者を二塁に背負うと、デビッド・ベルに決勝適時打を許し、このポストシーズン初黒星を喫した。さらに第6戦でもバリー・ボンズのソロ本塁打とジェフ・ケントの適時打で2失点。3勝3敗で迎えた最終第7戦では1回を3奪三振・無失点に抑え(下記動画参照)、チームも勝利して球団史上初のワールドシリーズ制覇を成し遂げた。
このポストシーズンの3シリーズでロドリゲスは計11試合に登板。18.2回で驚異的な28奪三振を記録した。またランディ・ジョンソンに並ぶポストシーズン史上最多の5勝(1敗)を挙げた。この活躍により、”K-Rod” という愛称が生まれるなどロドリゲスの知名度・人気が高まった。
この弱冠20歳の若者は、ポストシーズンでは90マイル台後半のストレートと、Nasty(エゲツない)と形容された恐ろしく切れ味の鋭いスライダーだけで三振の山を築いた。特にスライダーは衝撃的で、ワンバウンドになりそうなボールをメジャーの強打者がクルクル空振りするのはまさに爽快であった。
その後、ロドリゲスはセーブ王としてのキャリアを積み上げていくうちに、スライダーよりもチェンジアップに活路を見出し徐々に投球スタイルを変えていくのだが、管理人が見るに2002年のポストシーズンのスライダーは彼のキャリアで最もキレていた。
最後の2002年戦士
パーシバルが彼の師匠で、ブルペンでしょっちゅう怒られていたという。最初は「どうしてこの人は自分のことをこんなに怒鳴るんだろう?」と思っていたらしいが、それはキャリア終盤を迎えていたパーシバルがなんとしてもロドリゲスを一流のクローザーに育てたいという思いだったのだろう。打たれてもすぐに気持ちを切り替えることの重要さを学んだという。
2005年以降はそのパーシバルの引退によりクローザーに定着。毎年のようにセーブを積み上げていく。2008年にはシーズン62セーブのメジャー記録を作った。シーズン後、FAになったロドリゲスはエンゼルスからメッツへと移籍する。しかしこの後エンゼルスは毎年のようにクローザー不在に苦しめられるようになり、振り返るとこの時にロドリゲスと契約延長できなかったことは痛恨であった。
その後、メッツからブルワーズに移籍するもロドリゲス自身は2011年頃を境に成績が下降していく。さらにオリオールズ、タイガースなどとチームを代わっていくが、2017年6月にリリースされた。2018年はフィリーズのマイナー招待選手としてキャンプに参加していたが結果を残せず、3月24日に解雇され、事実上の引退となった。
2002年エンゼルスが世界一となった時、やはり新人だったジョン・ラッキー投手も2017年オフにFAとなってからは所属球団が決まらず事実上の引退。世界一のメンバーもついに全員が表舞台から姿を消した。
セプテンバー・コールアップ
通常はベンチに入れる選手数(アクティブ・ロースター)は25人だが、9月1日からは40人に枠が拡大され、多くの若手選手がメジャーに上がってくる。しかし、ぎりぎり40人まで詰め込むチームは少なく、5~6人増やして30人程がベンチ入りするところがほとんどである。
このセプテンバー・コール・アップの枠は多くの場合、来季以降に向け、若手のプロスペクト(有望株)を試すために使われる。特に下位球団にとっては今季の勝敗はほとんど捨ててかかっているので、単なる消化試合でなく新戦力を試す絶好の機会となる。
長谷川滋利(投手)(エンゼルス在籍 1997~2001年)
引退後の方がスゴい!?
メジャー通算成績(実働9年)
登板 | イニング | 勝利 | 敗戦 | セーブ | 奪三振 | 防御率 | WHIP |
517 | 720.1 | 45 | 43 | 33 | 447 | 3.70 | 1.33 |
兵庫県加古川市出身。東洋大姫路高校から立命館大学へ進み、1990年のドラフトでオリックス・ブルーウェーブの1位指名を受け入団。1997年1月に金銭トレードでメジャー移籍し、エンゼルスへ入団。エンゼルスで最初の日本人選手になった。エンゼルスでは5年間、主に救援投手として活躍。その後2002年からシアトル・マリナーズへ移籍。2005年のオフに引退した。
引退後はエンゼルスの地元のオレンジ・カウンティに移り住み、プロの指導者や解説者になることなく、趣味のゴルフや投資にフォーカスして活動している。メディアを通じて野球界とは今でも関わっているが、プロの指導者、監督として関わることとは距離を置いている。
流暢な英語を操り、アメリカ人にインタビューできるほどの語学力がある。また野球だけでなく、ビジネス、自己啓発、英語などに関する著書も多数。現役時代よりも引退後の方が目立っているくらいだ。
プレーオフに縁がなかったメジャー時代
1997~2001年でのエンゼルスでの5年間、チームは2位、2位、4位、3位、3位と一度もプレーオフへと進めなかった。ところが長谷川が退団した直後の2002年、チームはワイルドカードからワールドシリーズ制覇まで上り詰めたのだから皮肉なものだ。
逆にシアトル・マリナーズは長谷川が移籍する前年の2001年は年間116勝という記録的なシーズンでプレーオフへ進んだが、長谷川の加入した2002年以降は3位、2位、4位、4位と成績を落とし、結局引退するまで一度もプレーオフを経験することがなかった。
エンゼルスへは先発投手として移籍してきたが、4月に結果を残せず、5月からは中継ぎに降格した。シーズン終盤に再び先発するチャンスを得たが、そこでも打ち込まれ、以降は引退までリリーフ投手として活路を見出していく。
投球は90マイル台前半の速球とスライダーを中心に組み立て、外角低めへのコントロールが生命線だった。
印象に残る伊良部との投げ合い
管理人は1997年8月20日のヤンキース戦をアナハイムに見に出かけた。これは長谷川と同じくこの年にヤンキースに移籍した故伊良部秀輝投手が初めてカリフォルニアで投げる日だったからだ。この日、エンゼルスの先発が2回途中5失点で早々とKOされると、そこで緊急登板したのが長谷川。思わぬ日本人投手対決を見ることが出来た。長谷川はそこから6イニングを無失点に抑え、伊良部と堂々と投げあった。その間エンゼルスも3点を返し追い上げムードが高まったが、7イニング目の8回、ついに長谷川が3失点して勝負は決した。打たれた瞬間、マウンド上でがっくりとうなだれた長谷川の姿が目に焼き付いている。
鳴り物入りでヤンキースへ入団した伊良部だったがメジャーでは大きな成功をおさめることが出来ず、2002年で撤退。引退後は長谷川と同じくロサンゼルスを拠点にうどん店などを経営していたが、私生活には恵まれず2011年に42歳の若さで自死することになった。
対照的には長谷川は現役時代から投資やビジネスに熱中し、引退後は投資家として成功を収めていく。
ゴルフはプロの領域に
また、引退後の長谷川はゴルフに熱中し、シニアプロを目指して練習に明け暮れるようになる。2017年頃にはハンディゼロ以下になり、全米アマチュアへ挑戦。全米アマはプロへの登竜門として多くの若い選手が出場する。優勝者はマスターズや全米オープンへの参加が許される極めてレベルの高い大会だ。過去にはプロ入り前のタイガー・ウッズが3連覇したこともある。
予選2日間を2アンダーで回った48歳の長谷川はついに本戦への切符を掴んだ。本戦では親子ほどの年の違う若い選手らに混じって奮闘した長谷川だったが、難しいコース設定の前に残念ながら11個のボギーを叩いてしまった。しかし試合後「もしクラブハウスにマイク・ソーシアがいて、今日の自分のプレーを見たら、速攻でブルペンに電話したろうな」と英語でジョークを飛ばした。
管理人は現役時代から彼の知己を得ているが、引退後に自分の趣味を広げ、人生を楽しんでいる姿は見習うべきものがある。
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