GQ Sports「オータニはいかにして野球の楽しさを復活させたのか」(その3)

GQがウェブ上で公開した大谷選手へのインタビューの日本語訳、パート3である。不振に陥ったアリゾナでの最初のスプリングトレーニング。そこでのイチローの助言を振り返った。


我々がニューポート・ビーチのマリーナに着いた時、ショーヘイはスマホのカメラでドックに係留された豪華なヨットの写真を撮っていた。不思議そうな表情を浮かべ、無邪気に微笑んで、まるで目の前の多くの豪華なヨットは小説の中のシーンのようだと。マリーナはバルボア島に隣接しており、そこはまさに最もニューポート・ビーチらしいところで、バナナ・スタンドはテレビドラマ「アレステッド・デベロップメント」を思い出させ、ウォーターフロントのライフスタイルはドラマ「The OC」を思わせた。
(管理人注:バナナスタンド・・・アメリカのコメディドラマ「アレステッド・デベロップメント」の舞台になったニューポートビーチの中心地バルボア島にあるフローズンバナナを売る店のこと。フローズンバナナはバルボアの名物になった。実際にはDad’s DonutsとSugar ‘n Spiceという2軒の店が同じ通りに40~50メートルほどの距離で建っており、どちらもうちが本家だと主張し合っている。本家だ、元祖だ、と名物のオリジナルを争うのは世界共通)

バルコニーには多くのUSC(南カリフォルニア大学)の校旗がはためいていた(管理人注:USCはLAのお金持ちの師弟が通うことで有名な私立大学です)。ランドローバーやメルセデスベンツ、カスタマイズしたゴルフカートが並んでいた。通りには宝石の名前がつけられている。太陽は熱く、丘の上は焼けるようで、雨は遠のき夢のような記憶に思えた。我々は北海道の広大な氷原から遙か遠くにいた。

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このボートはショーヘイの代理人であるネズ・バレロ氏の所有で、彼は本日のキャプテンも務める。ショーヘイがボートに乗り込んだ時、ステップの最上段が水につかり、空のボートが揺れると、ショーヘイは「ワォ!」と声を上げた。

バレロは「注意して・・・」と言うと笑う前に大きく息を吐いた。「君がスリップするのは見たくない」

ショーヘイは最初の4シーズン、契約を重ねてエンゼルスでプレーしたが、それはNBAのトップルーキーの契約を思わせ、不可解なほど安かった。

日本のスター選手をルーキーと呼ぶのは常に不適切だった。ヒデオ・ノモが来たのは26歳の時。イチロー・スズキは27歳。ヒデキ・マツイは28歳、ユー・ダルビッシュは25歳だった。彼らは何年もの間日本でオールスター選手だった。MVPも獲っている。ショーヘイが来たのは23歳。しかしもし彼が25歳まで待ってから来れば、フリーエージェント扱いとなり、いくらでも好きな金額で契約できた。しかしオータニがメジャーに飛び込んだ時、MLBには複雑な制限があり、基本的にオータニを格安で獲得することが可能だった。すなわちどのチームも宝くじに参加でき、自分たちを売り込んだ。

最終的にショーヘイはエンゼルスを選び、彼曰く「小さな縁・・・フィーリングと呼ぶしかないものがあった ― 雰囲気とか縁が」がその理由だった。ショーヘイはアメリカ行きの飛行機に乗った時、人生を変えるような大きな変化だとは全く感じなかったという。しかしアリゾナでのスプリングトレーニングでチームメートに会った時に「自分が長らく夢見てきたことがようやく始まったのだ」と感じたと言う。

アリゾナは熱狂した。ルーキー選手がすぐさま燃えるような興奮を巻き起こす事などマレである。ショーヘイも最初はもがき苦しんだ。マウンドから投げたボールはどこへ行くか分からず、打席ではメジャーの球にバットが空を切った。説明を聞けばもっともな事だった。オータニはこれまでもシーズンはスロースターターだった。メジャーの平均的な投手はNPBの平均的な投手よりもハードなボールを投げる。そしてそのボールは文字通り日米で全く異なるものだった(大谷曰く「手に持つと本当にツルツルだと思った」)。全く新しい国、新しい食べ物、新しい電気のコンセントにすら慣れなくてはならなかった。彼は「ホームシックにかかったことはありません」と言う。高校に入って実家を出た時も、日ハムの寮に入った時も、フェニックスで最初のスプリングトレーニングに来た時も、そして現在もホームシックにかかったことはないという。しかし彼は苦心しており、少し戸惑っていた。

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そんな時、10度のオールスター出場を誇り、MVPでもある44歳のイチロー・スズキがショーヘイをアリゾナでディナーに誘った。この時イチローはマリナーズと2年契約の最後の年だった。

ショーヘイ
「多くの子供や多くの人々と同じように、私もイチローに憧れて育ちました。その彼が今日自分に会おうと言うのです。まるで違った世界に来たかのようでした。自分の人生より長きにわたり彼は日本でスーパースターでした。まさにカリスマだったのです。でも実際に会って一緒に食事をしてみると、彼は本当に普通の人で、それは自分にとってちょっとした驚きでした」

食事の夜、彼らはリーグへの対応やアメリカ生活に溶け込む時の最初の苦労について語り合った。

ショーヘイ
「でもイチローさんは基本的にこう言うのです。『自分を見失うな。これまで自分のやってきたようにしろ。だから何も変えるな。常に自分を信じろ』と。そして自分も思い当たったのです。私は常に少しずつ変えながらやってきた人間だと。フォームも少しずつ変えてきた。常に変化してきたと。イチローさんが言っていることとはちょっと矛盾するかもしれませんが。でもここ数年間、自分はいつもこの事を心に刻んできました。それこそが自分のやり方であり、自分自身だと自分でもわかったのです ― 自分は実際に何でも変えてきたと」

ショーヘイは自分らしくあることとは、常に変化させることだと気がついたのだ。その本能に従うことによってここまで来た、つまり彼を日本で最高のプレーヤーに押し上げ、世界一のプレーヤーになるという目標にとりつかせているのだと。

ショーヘイ
「イチローさんとのディナー以来、自分に自信を持てるようになり、正しいことをやり続け、自信を持って良い方向へと向かって行けたのです」

ボートに乗っている最中、私はこんな質問をショーヘイにぶつけてみた。日ハムで5年過ごしてまず日本で技術を磨いたわけだが、もし高校を出た直後、18歳でアメリカに来ていたら今とどう違っていたと思うか?

昔を振り返ってショーヘイはこう言った。

「みんな私を投手としてスカウトしようとしていました。週に1度投げ、その他の日はDHで出るという二刀流(彼は現在それをやっているが)でプレーすることはなかったでしょう。アメリカではトライするチャンスさえ与えられなかったかもしれません。

正直に言うと、自分でも両方できるかどうかは分かりませんでした。まずはマイナーに送られたと思いますし、最終的に100%メジャーに上がれたとも言い切れないです」

代わりに、忍耐と変化。プレーヤーとしてのショーヘイ、スポーツとしての野球。2013年の時点ではメジャーリーグのチームは破天荒なことをやらせる準備は整っていなかったかもしれない。つまりスター候補生に極めて大きなケガのリスクを負わせてまでやるとか、何でも出来るヤツはどれも一流になれないという経験則を無視して行動することはできなかったかもしれない。いずれも長年にわたり野球界ではそう信じられていた。

しかし2018年までにショーヘイは二刀流のコンセプトを証明して見せた。そして彼のやりたいことはクリアーになった。どちらもやるか、何もやらないか。メジャーは彼の行く先を見届ける準備がようやく出来たのだ。

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2件のコメント

  1. あけましておめでとうございます

    素晴らしい翻訳記事をありがとうございました。とても楽しく拝見させて頂きました。

    今年も投稿を楽しみにしております。

  2. ネイティブ向けのGQの英語は、新聞などよりも遙かに口語っぽい言い回しが多くて難しいですね。前後の文脈まで考えないと適切な訳ができない。まだ半分以上残っていますが、ご期待に添えるように頑張ります。

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